(備忘録)

キリコ。あんたは何故「あほ」だと言われるんだろう? 考えれば考えるほど、わからなくなってくるよ。
…というわけで考察中。4月は『BJ強化月間』になるかもしれません(笑)。

命をかけた歌

村上天皇の御世、天徳4年(960年)の3月30日、清涼殿において「天徳内裏歌合」が行われている。3月30日とは言っても陰暦であるから、今日のような氷雨が降る天気ではなく、春爛漫~初夏の気候であったろう。合わせる歌は20番。歌題は季節に合わせた霞、鶯(2) 、柳、桜(3) 、款冬、藤、暮春、首夏、卯花、郭公(2) 、夏草、恋(5) の12題である。
 
歌人 左:朝忠卿、坂上望城、橘好古、大中臣能宣、少弐命婦、壬生忠見
歌人 右:平兼盛、藤原元真、中務、藤原博古
講師 左:延光朝臣
講師 右:博雅朝臣
判者  :左大臣
 
左方圧勝で迎えたトリの一番。左は壬生忠見、右は平兼盛。ともに歌の名手である。
 
こひすてふ わがなはまだき たちにけり 
   人しれずこそ 思ひそめしか  <忠見>
(恋をしているという私の評判が早くも立ってしまった。人知れず密かに想い始めたのに。)
しのぶれど いろにいでにけり わがこひは
   ものやおもふと 人のとふまで <兼盛>
(知られまいとしていたのに顔色に出てしまったことだ、私の恋心は。思い悩んでいるのかと、人から尋ねられるまでに。)
 
この歌が合わされたとき、判者は優劣をつけることができなかった。記録にはこうある。
「少臣奏云、左右歌伴以優也、不能定申勝劣、勅云、各尤可歎美、但猶可定申云、少臣譲大納言源朝臣、敬屈不答、此間相互詠揚、各以請我方之勝、少臣頻候天気、未給判勅、令密詠右之歌、源朝臣密語云、天気若在右歟者、因之遂以右為勝、有所思、暫持疑也、但左歌其好矣」
(判者である私は、左右の歌とも優れているので優劣がつけられないと天皇に申し上げたのだが、それはそうだがそれでも優劣をつけろとおっしゃる。源博雅朝臣に判定を譲ったのだが彼は遠慮して答えない。このあいだにも双方の歌を詠みあってそれぞれが我が方の勝ちだと言う。私が天皇のご様子をうかがうと、はっきりと判じることはなさらないが、小声で右の歌を口ずさんでおられる。源朝臣も小声で、天皇は右の方がお気に入りのようですね、と言うもんだから、ついに右の勝ちとした。でもなぁ、左の歌も好いんだよな… ←わかば訳)
後世に残る名勝負である。両方とも小倉百人一首にある。そして、まことしやかに語られる後日談がある。負けた壬生忠見はこの一件がショックで病気になり、亡くなったという。それくらい真剣勝負だったということだろう。個人的には「しのぶれど…」の方が好きだが、初句にいきなり「こひすてふ」と持ってくる大胆なセンスも捨て難い。う~ん、難しい。今から千年以上昔の出来事である。

紫のゆかり

「縁もゆかりも…」の「ゆかり」を漢字変換しようとして気付いた。「縁も縁も…」になってしまう。ならばひらがなでよいやと思ったのだが、そこに「紫」という漢字を見つけてふと思った。何故、紫を「ゆかり」と読むのだろう? 以下、調査結果。
紫のひともとゆゑにむさしのの草はみながらあはれとぞ見る
 <よみ人しらず 古今・八六七>
という歌が『古今和歌集』にある。「一本の紫草のために、武蔵野にある草すべてが懐かしく思える」という意味だが、そこには「紫を思わせるただ一人の愛おしい人のために、縁(ゆかり)のある人たち皆が愛おしく思える」という想いが籠められている。どうやらこれが「紫=ゆかり」の語源らしいのだ。ただこの歌一首のために「紫」は「縁(ゆかり)の色」となってしまったらしいのだ。
「紫」で思い出すのは『源氏物語』の紫の上だが、「若紫」に光源氏が詠んだ
ねは見ねど あはれとぞ思ふ 武蔵野の
        露分けわぶる 草のゆかりを
(まだ共寝はしていないのに可愛くてならない。武蔵野の露を分け入りかねてなかなか逢えない紫草のようなあの方のゆかりのあなたよ)
という一首がある。『源氏物語』は『古今和歌集』からほぼ百年後に成立しているが、その当時の知識人は『古今』の歌は暗唱していて当然だったわけで、この歌が上記の「紫のひともとゆゑに…」を本歌取りしていることは言うまでもない。この『源氏』の大ヒットにより「紫=ゆかり」はますます補強されたと思われる。「紫のゆかり」という成語も派出する。
でもって、現代の我々の身近にも「ゆかり」があるのである。赤紫蘇を干して粉末にしたふりかけ。よくお弁当のごはんにかけるアレだ。赤紫蘇は紫色。すべては『古今和歌集』のたった一首の歌から始まっていたのであった。ちょっと感動~~。
……久々に『源氏物語』と『国歌大観』をひもといた。あまりの重さに手首のスジを違えた。(痛い)

手がかじかむ!

冬に逆戻りしたように寒い。外ではバラバラと派手な音がして何かが降っているが、アラレだと確認するのが怖いので外は見ないことにする(笑)。
ちと野暮用ありて、けふはお休み。

メイとガブ

絵本というのは難しい。何故なら、私が大人の目で読んでいろいろと深読みをしてしまうからだ。いや、大人なのだから深読みしなければならないという先入観すらある。たぶんそれは間違った考え方で、素直に感じたままを感じていればいいだけだと思うのだが、今自分は大人の目で見ているのか、それとも子どもの目で見ているのかということも一々気にかかる。そういう諸々の雑念を頭から払拭するために要らぬ労力を使ってしまう。
たとえば『しろいうさぎとくろいうさぎ』などは、子どもの目で読んでも大しておもしろくない本ではないかと思う。黒いうさぎの悲しさが子どもにわかるだろうか。しかしこれを黒人問題だという一言で片付けてしまっては身も蓋もない。この作品に対する正しい読み方があるとして、どう読んだらよいのか戸惑うのだ。『100万回生きたねこ』、これなども大人にならなければ本当の面白味はわからないだろう。と言っている私にも、まだ本当の意味や面白さは見えていないのかもしれない。自分が死ぬ間際になって、ああそういうことかと判るくらい深い内容なのかもしれない。しかし子どもが子どもの目で読んでそれなりに面白い作品でもあるらしいのだ。ことほど左様に、絵本というのは難しい。
『あらしのよるに 1』(きむらゆういち作 あべ弘士絵 講談社文庫)を読んだ。自分が大人の目で見ているのか子どもの目で見ているのか判然としないが、感じたままを書くと……。エロティック。この一言に尽きる。裏表紙の解説には「嵐の夜に芽生えたヤギとオオカミの奇跡の友情物語━━。」とあるし、解説の宮本亜門は「僕にとってのメイとガブは、国であり、民族であり、宗教であり、恋愛であり、本来この地球上に生を受けたあらゆるものの姿である。」と書いているが、私はそんなことを感じはしなかった。ただただエロティック。ページをめくったときに感じる前ページとの間の微妙な間(ま)がそう思わせるのかもしれない。この緊迫感は友情なんかじゃない、これは間違いなく恋愛模様だ。メイは自分の存在自体がガブを迷わせ苦しめていることを知らない。いや、知っているのかも? ガブは自分の内にある相手を食いたいという感情と衝動を「友達」という美名に隠して必死で押し殺し、メイと一緒にいたいと願う。そんなものが友情レベルであるはずがない。
もしこの話を裏表紙の解説どおりに友情物語として読まなくては間違いだといわれるなら、やっぱり私にとって絵本というのはこの上なく難しい分野だ。

(備忘録)

人工呼吸器取り外し事件など、関心のある話題はあるのだが、考えがまとまらないので本日の記事はお休み。
 
ちと大変なことがあった一日だったが、待望の『赤影』切手が手元に届いたり、大好きな人の写真を送ってくださる方があったりで、気が晴れた。深謝。

『BJ21』

4月10日から『ブラック・ジャック』が『ブラック・ジャック21』という新シリーズになり、半年かけた連続物になることは知っていたが、本日公式ページを覗いて驚いた。その帽子は何だーーーッ!! 魔女か? スナフキンか? 何があったんだ? 禿げたのか先生? 頼む。クールな黒医者よ、帰ってきてくれ……。
う~~む、この違和感と不安感はなんだろう。どうやら岬の家も爆破されるらしいが、「世界を揺るがす巨大な陰謀」(←映画『BJ2D』のときにも聴いたフレーズ)と闘うためにピノコと二人で放浪生活でも始めるんだろうか。いったいいつの間にBJは正義の冒険ヒーローになってしまったんだ? ねぇ、根本に戻ろうよ。医者の話なんだよ。医療の話なんだよ。誰もがひとつ持っている生命の話なんだよ。だから誰もが自分の身に置き換えて本気になって観られるドラマなんだよ。身近だけど深遠なテーマを持ったドラマになるんだよ。頼むから、BJを通俗的なヒーローに仕立て上げないでくれよ。でもって、キリコが悪の手先に使われるなんてことにでもなったら、もう、私ゃ泣くね。まさかそこまではしないだろうと思いたいけど。
ストーリーを付け加えるのはいい。今までのシリーズ中でもそれが成功した例はある。でも、登場人物の造形と基本となる思想を変えたら、それは全くの別物だ。『BJ21』、なんだか複雑な思いで観ることになりそうだな…………。

『陰陽師 太極ノ巻』

『陰陽師 太極ノ巻』(夢枕獏著)読了。
文庫で新刊が出るとついつい買ってしまう『陰陽師』シリーズ。今日も今日とて相も変わらず、安倍晴明と源博雅の二人は晴明邸の濡れ縁でぼーっとして酒を飲んでいる。博雅が季節の移ろいに感じたことを口にすれば、晴明が「呪」の話を始める……というパターンも毎回同じ。作者自身がマンネリだと言っているように、マンネリと言えばマンネリなのだが、その情景を読むのが楽しみで買っている私のような読者も結構多いのではないかと思う。静かでゆったりとして雅で、とにかく心地よいのだ。博雅は芸術家肌(実際、笛の名手だったのだ)のちょっと天然ボケの気の善い漢(おとこ)。晴明は透徹した眼を持つ超能力者。その力を敬遠して誰も近寄らない晴明のところへ、博雅は暇さえあればやってきて、一緒にぼーっとしている。博雅が、その芸術家のセンスで森羅万象の姿や真理にまで触れていながら、自分ではそれに気付かないのを、晴明が素直に感嘆する。この二人が醸し出す独特な雰囲気がよい。
6編の短編が収められているが、どれを読んでも、昔の、例えば『今昔物語』などの古典とか仏教説話を読んでいるような感覚になる。「覚(さとる)」の一編などは、禅の話によく出てくる「サトリ」という妖怪(?)を扱った話だし、「二百六十二匹の黄金虫」も、同じプロットの説話を読んだことがあった。昔の人が怪異譚やちょっとありがたい説話を興味津々に聴いたのと同じように、現代人の私もそういう話をわくわくして読む。このシリーズは現代の『今昔物語』なのだと思う。また、夢枕獏が考えるところの仏教の「空(くう)」と陰陽道の「呪(しゅ)」の関係が、晴明の口を通して語られていて、これもまた興味深かった。

気分がハイ

ヒールなBJが描きたかったのに……。_| ̄|○ ぅぅぅぅぅ
夜中に何やってるんだろうな、まったく。寝ます。
 
「報酬は一億円。
 ビタ一文まけない。
 どうする?」
 
(おおおおッ!縫合痕描き忘れ!後から追加)

仕事終了

なんとか今日中に終わりまいた~♪
さ~て、何して遊ぼうかなっと。

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